豊岡水害ボランティア

2004年10月24日(日)


豊岡市に入る前の段階から、円山川沿いの道は砂ぼこりを上げている。市に入ると堤防の内側の道路に面した家屋の軒先には、家から出された家財道具の山、山…。どこも同じような光景。そんな中を豊岡市役所に隣接する水害ボランティアセンターに向かった。


道路(左)と円山川(右)
この時点では通常の水位とかわらないが、水面と道路は2メートルぐらいの差。


道路はホコリにおおわれ、街角のいたる所に回収を待つゴミの山

まず市役所近くの念法寺の駐車場に車を止め、徒歩で豊岡市立中央会館。まずボランティア登録である。3階が受付というので階段を上がろうとすると、どこかで見た顔。早稲田大学政経学部佐藤ゼミの同級生Nくんではないか!大いに驚く。家業である城崎の老舗「西村屋」を継ぐために郷里に帰ってきたという。お母さんが姫路出身というが、この家の名前を聞いてこれまた驚いた。世間は狭い。狭すぎる…。



洒脱な感じの豊岡市役所(右)と隣接する市立中央会館(左)


センターで住所・氏名を登録し、ボランティア保険に入る(費用は豊岡市側負担)。スタッフの方の説明では、待機場所で指示するまで待ってほしいという。というのも、被災者からボランティアセンター宛てに「どういった仕事を、どんな人に手伝ってもらいたい」かのオーダーが入り、その内容に合わせて、センターがボランティアを派遣するシステムなのである。


ボランティア登録場所(前方)と待機場所(後方)。泊り込みで来たボランティアの場合も、自分の生活の糧は全て自己責任が原則(左)。

男女合わせて10人ぐらいが待機していただろうか。すぐにオーダーがあった。「男性で、重労働をお願いできる方!」私も声を掛けられた。"重労働"という言葉には少し驚いたが、もちろん「やります」と即答。集まったのは、豊岡市内の38歳自営業の方、40代後半・中学3年生(神崎中学校)の親子と私の4人。まずリーダーを決めて下さいとのことなので、地理に詳しい38歳の方がリーダーになった。自宅のほか、友人の家の手伝いを昨日までに終えたので、今日はここに来たという。


豊岡市の地図。堤防が決壊した2箇所と被害の大きかった地区が赤で囲まれている。


「最も被害の大きかった地区の一つ某町にある老人女性の家のオーダー」で、「必要な工具や器材が何かを事前にその方に電話で聞いてから出発してほしい」また「市役所周辺で各自、昼食を確保してから現地に向かってほしい」旨の説明。床上浸水で、家財道具の運び出しや床板を上げる必要があるとのことなので、バールを持って現地へ向かう。

と、現地へ向かう途中でまたもやどこかで見た顔とすれ違う…。なんと増位中1年時代の担任 岩井先生ではないか。先生も思い立ってボランティアに来たという。ただし、先生を見ても驚かない。さもありなんなのだ。昔もそういう熱い、頑張りやの先生だった。

現地に到着後、私たちが入った地域の全ての家が床上浸水であることがすぐにわかった。目にできる全ての家から、水を含んだ畳やソファ、TVなどが玄関先に出されているからだ。


某町の住宅街を抜ける道路。道沿いははるか彼方まで大量のゴミ…。
姫路市を含む他都市からゴミ収集車の応援部隊が来ていたようだが、とても間に合う量ではない。

挨拶も早々に依頼者の家に入った。息子さん夫婦や親戚、お孫さんが大阪から助けに来ているが、なんとか畳程度は外に出したものの、大型家電やタンス等は若い男性の力を借りないと無理だという。

障子を見ると、床上120センチ程度のところに泥水が到達した位置をはっきり示す線が残っている。万一、濁流が浸水した時点でこの家の1Fに誰かがいれば、大変なことになっていただろう。
洗濯機、冷蔵庫など濁流に浸かった電化製品、食器棚やタンスで利用できないものを全て家の外に出す。食器棚はドアは普通に閉っているが、木が水を含んで膨張しているため、力を入れても簡単には開かない。やっとのことで開けても、中のお茶碗やカップ、調理用のボールなどは、浸入した泥水がそのまま中に残っている。まるでコーヒーが入っているようだ。逐一、水を流しながら、全て外に出した。台所の流しの下にはぬか床や梅干のカメがあった。ここにも同様に水が入り、異様な臭いを発している。そんな中での作業だった。50リットルのゴミ袋を何十枚と使った。


泥水に浸かった大型テレビ。水を含んでかなり重いたたみ。

ただ一人の居住者であるおばあさんは、懐しい食器やまだ洗えば使えそうな家庭用品を捨てるのをためらった。ところが、息子さんやお孫さんは、なるべく棄てたがった。おばあさんにとっては大切なものでも、息子さん夫婦にとっては思い入れはないのである。第三者としては複雑な思いでその微妙なやり取りを聞いていたが、息子さん夫婦の言うことが、結果としては早期に元の生活につながることは容易にわかった。息子さん夫婦も遠方から会社を休んで手伝いに来ている。逐一おばあさんに確かめるより一律に棄てていくほうが片付けるのに要する時間が短くて済むからである。あらゆる余裕がないのだ。お孫さんも、おばあさんの買っておいたと思われる、まだ値札がついたままの新しい靴をゴミ袋に入れていた。もちろん泥水まみれではある。後に、おばあさんがその靴を探しにきた。私の立場では「棄てられたようです」とは言えなかった。

地震の場合なら、家屋の全壊か、物品が倒れて壊れるか、火災に巻き込まれて焼失するか。いずれにしろ原型をとどめない。ある意味での諦めもつく。今回のような浸水の場合、原型をとどめていても棄てざるを得ないものがほとんど。被害の形態が違う。ある意味で残酷である。


「ゴミ収集車が全く来ない」と近所の方が集まり嘆く。
誰もが一生懸命やっているのがわかっていても、行政に対する不満も出てしまう。


正午過ぎ、いったん全員が手を止め、コンビニおにぎりをほおばる。用意しているので要らないと何度も言ったが、それでは困るの一点張りで、別におにぎりを数個頂いた。全て食べた。豊岡市近郊のコンビニは既に大量の納品体制を整えているようで、毎日コンビニおにぎりを食べているという。災害時のコンビニの重要性は神戸の時と全く同じ。

食事をしつつ、親子でボランティアに来ている中3生と2人で話す。お父さんに誘われて来たというが、しんどい業務に率先して取り組むなどたいしたもの。私が中3のときに父に誘われても行かなかっただろう。部活で野球をやっており、高校でも続けたいという。こういう子には、いずれ成功してもらいたい。心からそう願う。

昼食後、棄てるべきものを外に出した後は、床下部分に着手。まず、畳の下にあった床板を持参したバールで1枚1枚丁寧にはがしていく。その後、床下に堆積した泥をスコップですくい上げる。いわゆる「泥あげ」。その後、石灰を撒き、消毒をかねて乾燥をさせる。大変な時間が掛かった。土壌の質もあり、簡単に乾きそうにない。しかし、全てをきちんとしないと、新しい畳を入れても、すぐにカビが生えてしまうそうだ。


昔の思い出の品や寄せ書きなどもゴミに出されていました。災害はいろんなものを奪います。


その後、ガラスの拭き掃除などを終えると、ボランティアセンターの終了規則時間の4時前になっていた。息子さんの奥様が、私たちの写真を撮りたいという。いい格好ではなく、泥だらけであったが撮ってもらった。と、保険の専門家であるK市議から聞いた言葉を思い出した。「大規模な災害が起きた際には、(保険会社の手が足りなくなるので)証拠写真をもって被害状況を証明することができる」。"家の中の写真も取っておいたほうがいいですよ"とアドバイス。最後に、丁寧なお礼を頂き、その家を後にした。

ボランティアセンターに帰って、1日の活動報告。水害の恐ろしさと地震との違い。また、ボランティア受け入れの手際よい捌きに驚いたという旨の感想も。強制的に動員したり、無理に呼びかけなくても、ボランティアをしようと集まった人が今日だけで700人もいたという。また、それをきちんと受け入れる体制もできていた。日本の本格的なボランティア文化は阪神・淡路大震災に始まったという。あれから10年。もうこの文化が消えることもなかろう。

たった一日のわずかなお手伝いだったが、少しは役に立っただろうか。

帰ろうとすると、スタッフの方から、城崎温泉旅館組合発行のボランティア用外湯入浴券を渡された。「疲れを落として帰ってください」という。粋なはからい。合併で城崎町は豊岡市と一緒になる予定。Nくんのお父さんは城崎町長で旅館組合の責任者でもある。最後もいい話だった。

帰宅時も来る際と同じルートだったが、なぜか円山川沿いから播但連絡道入口まで断続的な渋滞。実は、昨日も睡眠時間は2時間ほど。渋滞時に不覚にも2回ほど居眠りをしてしまった。衝突寸前の事態も…。ボランティアに行く方で、その日のうちに運転する際は、くれぐれもご注意を。頑張って活動すれば、その分疲れる。
私にはまだ悪運があったということだろうか。


登録時に胸のあたりにつけるように指示された名札。議会の机にはっておこう。