03/29 (日)
なぜか早く起きてしまい朝6:00スタートのTBS「時事放談」を見る。民主党からは渡部恒三最高顧問、自民党からは森喜朗元総理が出演。西松建設の献金問題では森氏が事件について全くの他人事のように発言しており、閉口。先日トルコで開催された世界水フォーラムへ皇太子殿下に同行することが発表された時点で森氏は逃げ切ったと報道(週刊新潮3/12号 永田町「小沢ショック」の終着点『沖縄利権「尾身幸次」皇太子ご随行「森喜朗」は逃げ切り』)されていたが…。自らの総理辞職後は、小泉・安倍・福田・麻生内閣の4内閣を誕生させ、今や押しも押されぬ日本のキングメーカーである。政策や理念は全く知らないが、政局の判断や駆け引きという能力が現在の地位たらしめたのだろう。ある意味で現在の日本政治の象徴であり、この人が仕切っている限り、政治は何も変わらない。
その後、地域の自治会総会。H会長ほか役員の皆さんから活動報告や会計報告など。私から簡単に県政の報告を含む挨拶を。その後、新しい自治会役員が選挙で選ばれた。退任される役員、これからの新役員の皆さんにはいつもお世話になっている。私も地域のためにも頑張りたい。その後、昼食懇談。
姫路でも桜が少し咲き始めている
今日は、千葉県知事選挙の投票日。開票から間もなく森田健作候補の当選確実の報が伝えられる。注目された割には投票率が45%と高くなかった。逮捕前の世論調査でも民主ほか野党推薦の吉田候補はダブルスコアもあり得るほど離されていたという。新人だが、現職の堂本知事の後継候補ということで、今の政治状況に求められる改革やチェンジというフレーズが使えない選挙。小沢代表問題も一定の影響はあっただろうが、当初から厳しかったと思う。
(確定票) 1,015,978 森田 健作 636,991 吉田 平 346,002 白石 真澄 136,551 八田 英之 95,228 西尾 憲一
森田候補の場合、街頭でも多くの通行人から携帯電話で写真撮影をされるほどの人気だったというが、その公約の中に知名度を活かして千葉県の広報マンとして頑張るというものもあったようだ。既存の政党の信用度が低下している一方、逆に東国原知事や橋下知事の高支持率の影響で、他府県でもテレビ・タレント出身の候補者に対する好感度が相当上がっている。こうした傾向はタレント出身知事が大きく失敗したり汚職でもしない限り続くのだろう。本県でもそうした候補が出てきた場合、相当な影響があると思う。
以前から、為政者とその権限、選挙・試験の関係については常に興味を持って見ている。選挙について言えば、日本の場合、参院全国比例や知事選など広範囲で候補と有権者との結びつきが薄い「選挙」では、地盤(支持者組織)・看板(知名度)・鞄(資金)が揃っている人か、テレビタレント出身者に占有されることになる可能性を以前から指摘している。前者の例は業界団体・宗教団体が推す人、官公庁出身の人で組織と連携できる人、政治家二世、企業経営者などである。今回の例は後者である。もちろん一概に否定されるものではない。
アメリカを見るまでもなく、選挙は先にあげた3要素を形成するための候補者本人の資質とその広報・宣伝(政策・人柄等のTVCM・ポスター・ビラなど)による支持拡大活活動の結果によって決まるようになってきた。候補者の資質の差が少しなら、広報・宣伝による逆転は簡単である。しかし、効果のある広報・宣伝の量と資金は比例する。その資金は自己資金か他からの資金(献金)かいずれかで工面しなければならないが、献金文化がなく、献金=見返り論の強い日本では自己資金のある方がはるかに有利である。また、地盤・鞄はなくても看板が抜きんでているのがタレント等の有名人である。これまで十分にメディアを通して顔を売っている。これまでのテレビでの宣伝量に、政治家がビラなどの紙媒体で宣伝しても対抗するのは容易ではない。また既存の政治家に高い知名度があったとしても、これまでの議会や既存の政治システムの中の何らかの案件で賛成・反対などの意思表示を行ってきており、または、一定の政党・組織等に属してきたことによってイメージやイデオロギーがあるものと有権者から認識つけられている。つまり有名な既存の政治家は出馬の時点で一定の敵対層を有しているのである。清新なイメージという混乱する政治状況の中では、そうした既存の政治経歴等が不利に働くことがあるのである。
先日宮崎県へ行ったが、知事が県の広報マンとして全国のテレビに出てくれることがどれほど素晴らしいかという話を多くの方から聞いた。知事の給与と経済効果を比較していた人もいた。確かに知事給与の何十年分では効かない経済効果があったと思う。費用対効果としてはその通りである。しかし、全国の物産展等に分刻みの日程で駆け付け、週末は東京のテレビ番組に出演したり、先日は東京マラソンにも出場、その後、首相官邸での経済対策会合に参加している姿などを見ていると、通常の県庁の会議や事務、決済はどうやってこなしているのだろうと少し心配してしまう。
つい先日の27日に宮崎地裁で東国原知事の前任の安藤忠恕前知事の官製談合・汚職事件の実刑判決があったばかり。この事件では、既に前出納長らが有罪判決を受け、元土木部長、元環境森林部長、元土木部次長、元宮崎土木事務所次長、元高岡土木事務所長、元道路保全課長、元同課長補佐、元土木部の課長補佐級職員ら多くの県庁職員が逮捕や書類送検されるなどの処分を受けている。相当大きな汚職事件である。これがたった2年少し前のこと。知事が不在でも県庁組織が上手く回っているというなら、組織はしっかり立て直されたということだろうが、外部からはよくわからない。
「御輿は軽くてパーがいい」。これは国会議員の街 永田町で昔言われた言葉で、大臣よりも大臣を差配するキングメーカーの方が力があり、大臣に言うことを聞かせることが可能だった時代の言葉である。こうしたキングメーカーは小選挙区制の導入により、派閥の力が落ちていく中で、存在そのものが難しくなり今にいたっている。また、国会では政府内部への政治家登用(副大臣・政務官)、政府委員制度(官僚答弁)の廃止に伴う大臣等の答弁増加などにより、実力のある政治家に政府の役職があたるようになってきた。選挙の当選回数を重ねるだけでは大臣になれなくなってきており、能力がない政治家は政府の重要な役職につけないという状況が少しずつ生まれてきている。これはいいことである。
しかし、この「御輿は軽くてパーがいい」という言葉。永田町で使われなくなっただけ。地方の首長が職員機構にこう思われたらどうなるだろう。人気だけで選挙に勝ったものの、政治家としての権限を行使する力がなく、人事にもあまり口出ししない、職員機構の上に乗っかってくれるリーダー。これは歓迎されるかもしれない。選挙を単なる人気投票とする傾向が強まることはそんな危険性も孕む。
選挙に関する教育はほぼ皆無という我が国。市民としての義務が何かを考える教育や選挙の仕組みや一票の重要性やその影響などシチズンシップ教育と呼ばれる市民教育は、民主主義国の欧米では教育の一環として行われているが、我が国では政治の排除という考えなのか義務教育では完全に欠落している。私の記憶では「選挙の標語ポスター」を夏休みの宿題か何かで書かされただけ。公明選挙という文字は使ってはいけないといわれたことだけは覚えている。最近の選挙は、投票率の低下にともなう組織票占有率の上昇、郵政民営化のような単一争点化、付和雷同的な国民性の顕在化など、選挙については心配になることも多く、いい流れだとは思っていない。
人気だけで選んでしまい、「御輿は軽くて…」なんてことになると、そのツケは有権者に帰ってくるだけでなく選挙不信になる。氏の政治遍歴を永田町で知る人は多いが、男子三日あわざれば刮目してみるべしという。期待に見合う仕事をされるだろうか注目したい。 |